年が明けて。。。徒然なるままに
あけましておめでとうございます。
皆さんは無事に年が越せましたか?
この数年の中で、昨年は特にいろいろな行事や
様々な状況があって、
OHANAの活動がとても忙しく、
なかなか記事を書く事ができませんでしたが、
なんとか私は年を越す事ができました。
年が明け、今日1月2日は私にとって特別な日です。
特別な日でもありますが、
大きなトラウマの一つとなっている日でもあります。
この日はほぼ毎年、外部のものは断ち切り、
私一人で過ごす事にしています。
でも、今年はなんとなく思うところあって、
こうして記事を書いています。
何か特別な意味はなく、本当に徒然なるままに
思う所を書いていこうと思います。
思いがかさなるその前に
生きて行く上で、時に音楽は大きな力を持ちます。
とても嬉しかった時、楽しかった時、幸せな時、
泣きたくなるほど悲しい時、
死にたくなるほど辛い時等、
心に刻みたいほど幸せな時期に流行っていた音楽や、
たった一人で何かを乗り越えなければいけなかった時に
支えてくれた音楽は、記憶にしっかりと残るものです。
年末~年明けにかけて、
徒然なるままに好きな曲をずっと聴いていて、
平井堅さんの「思いがかさなるその前に」が
心に残り、今日はずっと聴いています。
曲を聴いていると、父と息子からの言葉のように聴こえて来ました。
父から
以前の記事にも父については書いていますが、
私は父が超大好きです。
大好きだった私の父は、
私が20歳の時に膵臓がんで、若くして他界しています。
膵臓がんは、医学が進んだ今も発見が難しく、
5ねん生存率が10%以下で、
発病した本人だけでなく、家族にとっても
とても病気です。
父が発病した当時は、30年以上前でしたから、
まだ告知や緩和ケア等の選択肢がなかったので、
その闘病生活は極めて過酷な闘病生活でした。
引用元:国立がん研究センター
癌の疑いがあり、切開手術をした結果、
大動脈と繋がる膵臓部分に大動脈を囲む形で腫瘍があり、
胃や肺にも転移してる腫瘍のみ切除するしか出来ませんでした。
お医者さんから告げられた病名はすい臓がんの末期で、
余命はたったの3か月でした。
たった3か月で、私達家族は覚悟なんてできる訳もなく、
とにかく涙がとまらない日々でした。
入院している父は、毎日会うたびに目に見えて痩せて行って、
体力的な問題で放射線治療も無理となり、
抗がん剤治療に変えてからは、
毎日副作用である嘔吐との闘いで、
大好きな父なのに、苦しくてこわくて、
毎日お見舞いに行けませんでした。
でも、思い返してみると、
父はとても勘の良い人だったので、
すでに自分の病気の事は知っていたと思うのです。
何故なら、父が他界した後に遺書が見つかったからです。
父が他界してしまった事だけに焦点を充てれば、
悲しい過去と、過酷だった闘病生活、
残された遺族である自分達の事しか語れません。
でも、一歩踏み出して、
過酷だったと思い込んでいる闘病生活を
できるだけ冷静になって受け止めてみると、
その思い出は、父が短い命をかけて、
私達、子供に残した最後の伝言にも思えてきます。
残り少ない命を前にしても、絶対に逃げなかった事や、
決して弱音を吐かなかった事、
周りの人への感謝を決して忘れない事、
そして、他人だったとしても、自分が関わったからには、
人生をかけるつもりで大切にする事を父は伝えてくれたのだと
私には思えてならないのです。
父から仕事や他人の愚痴を聴いた事がないし、
家にいる時は、父が家事をして、
子ども達と一緒に必ず散歩とお茶をし、
家族全員の声にも耳を傾けてくれました。
それは、会社でも同じで、
どんなに忙しくても、社員の言葉に耳を傾け、
社員の健康を思いに留め、寮に住む社員の衣食住環境についても、
役員の人達ととてもマメに会議を開いていたときいています。
自分を大切にしなければ、
他人を大切にできないという事を耳にする事もありますが、
父の場合、他人を自分自身のように大切にすることが、
父自身を大切にする事だった様に思えるのです。
息子から
父が他界してから、わずか3年後に、
私は長男を胎盤剥離で死産しました。
初めての子供ができて、臨月となり、
毎日が本当に幸せでした。
子供の産着や、お布団、お宮参りのお洋服、
哺乳瓶やベビーバス等を用意し、
息子に逢う日を心待ちにしていました。
でもGWのある日、
遊びに来ていた友達とお茶をしていて、
椅子から立ち上がろうとした時に
お腹のなかで、「ブチっ」という音がした気がしました。
その後、すぐに大出血したのです。
かかりつけの病院である国立病院に
急いで電話をかけたら、
「救急車は混んでいて時間がかかるので、タクシーで来てください。」
そう言われ、急いでタクシーで病院に向かったのですが、
受付で言われたのは、
「救急搬送の人が優先なので、待っていてください。」
そんな心無い言葉でした。
待っている間、とにかくお腹が痛くて、
息子が「早くここから出して」と言っているようでした。
友達がどんなに状況を説明しても、
受付の人はまともに対応をしてくれません。
友達が直接産婦人科病棟まで行って、
看護師さんに状況を話してくれたのですが、
産婦人科病棟まで、自力で来いとの事で、
車いすを押して、私のいるところまで
エレベーターで降りてきました。
その後、急いで産婦人科病棟に到着したのですが、
何故か私は怒鳴られ、怒られました。
GWという事もあって、在中している医者が不在との事で、
お医者さんが来るまで、10分程度待ったと思います。
タバコ臭い息で現れたお医者さんが、
お腹に聴診器を当てると、息子の心音はもう聞こえませんでした。
その後、すぐに息子をお腹の中から
出さなければいけないという事だったのですが、
私は絶対に出したくありませんでした。
死んでいても良いから、
ずっと息子と一緒にいたいと思い、
必死でその事をお医者さん達に叫んでいたと思います。
でも、事態はそうは行きません。
息子を出す事になったのですが、
私の身体の負担を軽減する事と、
次に妊娠した時のために、
普通分娩で息子を出す事になりました。
息子を亡くし、その息子を出産するなんて、
母親にとって、どれほど残酷な事か。。。。
息子を出産した時の事、
私は忘れた事がありません。
もう生きてはいない子供は、
通常と違って、出て来てはくれません。
お腹をお医者さんや看護師さんに強く押され、
息子を出産したのです。
産声をあげることがない息子を出産したと同時に、
私は顔に布をかぶされました。
せめて一目で良いから、息子の顔をみせてほしいと、
何度も懇願しましたが、次に赤ちゃんを産めなくなるからと、
見せてもらえることはありませんでした。
今の時代だったら、完全な医療ミスであると思うのですが、
今から30年前は、こんな事は日常茶飯事だったのかも知れません。
息子の事を思い出すと、
医療に対して怒りしかわきません。
でも、息子を失った当時の私と主人には、
病院を提訴するほどの、体力も気力も知識もありませんでした。
でも、父と同じように、
息子の存在だけに絞って考えてみると、
息子の思いが、わかるような気がしてくるようになりました。
息子の死産は、耐えがたい事です。
でも、息子は私を救ってくれたのです。
大好きな父を亡くし、
いつ死んでしまっても良いと思っていた私に、
「生きなければいけない」という理由を
命という強烈な存在をもって、救ってくれました。
絶望的な時期から、私を救い出して、
心から幸せな時間を私にくれたのです。
妊娠すると、つわりなどの身体的な負担や
ホルモンのバランスを崩してしまいがちになって、
イライラしたりするケースもありますが、
長男の時は、つわりも不安もなくて、
ただ幸せと、安定しかありませんでした。
その時の状況を憎んだり、後悔したりす事よりも、
自分に関わる人達に感謝をして、優しい私でいてほしいと、
息子が言っているように感じるのです。
残念ながら、息子はこの世に生きて
誕生する事は出来ませんでした。でも。。。
息子が生きていた事実を知っているのは、
私と主人を含めても、数えるほどしかいません。
私に長男がいた事実を伝えるためには、
どんな事があっても、私は生きなければいけません。
亡くなってもなお、私が生きる理由を息子は残してくれたのです。
総じていえば。。。
誰かの助けに願うなら、
自分を費やす覚悟をしなければいけないと私は考えます。
法律や制度だけでなく、環境が変化するのには
とても長い時間が必要です。
それと同時に、問題を乗り越えるためには、
相当の時間がかかるのです。
相談でただ話をきくだけでなく、
OHANAの相談者の人生が
ほんの少しでも豊かで、幸せになれるまで、
楽しい時も、辛い時も長い時間を
当事者と一緒に乗り越えられる
そんなOHANAの支援活動でありたいと思います。