鎖を外して
息苦しかった猛暑もあっという間に過ぎ、たくさんの雨が降った後、
とても涼しくなってきました。
朝夕は、ヒヤッとするぐらいです。
前回の記事の更新から、ずいぶんと時間が過ぎてしまいました。
今年前半は性暴力や性犯罪が絡むニュース多くがありましたね。
今まで誰にも言えなかった辛い思いや経験は
とても言葉にはできないけど、
辛かった経験や思いを文章やメディアを通して発信する勇気ある方もたくさんいました。
でも一方で、いろいろな事情があって今でも
なかなか声を上げられない当事者の方が数えきれないほどに日本にはいます。
いろいろな事情の中には、自分の家族、もしくは上司や同僚、
クラスメイト、支援機関や医療機関等、
自分に近しい人から被害に遭った方は
なかなか声を上げる事は難しく感じてしまいます。
例えば・・・
・家族関係を壊したくない。
・経済的に職場をやめる事ができない。
・親にばれるのは絶対嫌だ。
・学校や職場で仲間はずれにされたくない。
・一度支援機関に相談したけれど、なんだか
気持ちがモヤモヤしてしまい、余計に辛くなってしまった。
・また逆に、とても親身に相談にのってくれる支援機関を見つけて
面談の予約を入れたものの、当日に気分が優れなかったのでキャンセルしてしまった為、
その後気まずくなって相談できなくなってしまった。
・体調を崩したので医療機関に行ったけれど、
原因となっている被害の事を聴いてくれず、薬ばかり処方されてしまう。
・心療内科に通院している事を誰にも知られたくない。
いろいろな事を考えてしまい、なかなか声を上げにくいのです。
また、刑事であれ民事であれ、訴訟を起こした人や訴訟中の方も
声をあげる事ができないでいます。
今回は訴訟や裁判等で声をあげることができない
当事者の事情や気持ちについて書いていきたいと思います。
「法律」という厄介な鎖
訴訟を起こすと、裁判に必要な文書に中に
「本法廷での事、双方共に相手方の名誉を毀損、侮辱する行為を一切しない事」
こんな感じの短い文言が記載されている時があります。
そのために、被害の事を相談したり、誰かに話したりする事が
法律違反であると感じてしまい、声を上げる事ができません。
もっとも、私達当事者は被害を受けていなければ、
本来はみなさんと同じ普通の人間であって、
よほどの事がない限りは、裁判所や弁護士とは関わらないで生きていくことでしょう。
せいぜい、何かの商品クレーム対応のためのサポートセンターか、
もしくは長い齢を生きて、子供や家族に何かを相続する時に
お世話になる事があるかも知れないという程度です。
でも、人生でたった一度、言葉や暴力の支配により性的に傷つけられ、
自分は間違っていない事を裁判所で公正に判断してもらいたいと願った瞬間から、
「法律」という厄介な鎖で縛り付けられ、
被害の事を表現する自由を奪われてしまうのです。
これはあまりにも理不尽な事です。
人間を人間として扱わないようなひどい暴言や暴力を使った支配に対し、
同じ暴言、暴力で仕返しをせず、
これからの人生を一変してしまうほどの被害の傷を
死ぬ思いで必死で耐えながら法廷に立ち、
自分自身を八つ裂きにしてしまいたいほどの
被害の記憶や自分への嫌悪感と闘いながら
法廷とはいえ公の場で被害の一部始終を証言して例え勝訴したとしても、
先に述べた「法律という鎖」に縛られて生きていかなければならないのです。
人権と絶対悪
人間は誰もが生きる権利があります。
この世の中で必要のない「命」なんて一つもありません。
「人権」の持つ意味はとても広範囲ですが、
一つの法律ですから、人により捉え方は様々ですが、
私はそう理解しています。
だけど、人間は様々な権利をもってはいるけれど、
故意に誰かを傷つけても良い権利は存在しません。
最近ではネットの普及によって、いろんな情報が入り、
日本の至るところに見られる根深い差別意識と悪しき固定観念が
ずいぶんとあらわになってきました。
・強くなるためなら激しい暴力にも耐えなければならないとか、
・社会的に高い評価を受けるためには、手段を選ばず誰かを犠牲にするとか、
・日常のストレスを軽減するために、
ネットで見ず知らずの人に容赦のない言葉を浴びせるとか、
・子供を虐待するとか、
・地域や社会とのバランスを保つためにそういった出来事を見過ごした結果、
誰かの命が亡くなってしまうとか、
目を覆いたくなるような現状が日本にはいっぱいある事が表れてきました。
みんながそうだから自分も誰かを傷つけても良いのですか?
いいえ、それは絶対に間違っています。
そんな風に考えていくと、「法律」もとより、裁判という制度は
傷つける権利を被害者に受け入れさせる制度に私には見えて、
あまりにも無理があるのではないかと思うのです。
だって、「故意に誰かを傷つける」事は
人間として決してしてはいけない絶対悪なのですから。。。。
私は加害者の人権を認める事や更正する事に反対しているのではありません。
ただ、まずは被害者の心の傷を癒す事を一番優先してほしいのです。
性犯罪、性暴力の被害によって奪われてしまった様々な自由を
更に奪わないでほしいのです。
何かの被害にあっていない人同士で、
そういった会話をすることは問題はないと思います。
ただ。。。
被害当事者を目の前にして、加害者の人権の意味を話す事は二次被害であり、
被害者を傷つける行為なのです。
そして、冒頭にも書いたように、傷つけても良い人間なんて一人もいないのです。
鎖を外すためにできること
被害によってついてしまった傷は、残念ながら消す事はできません。
でも、法律という鎖なら自分次第で外す事ができるかも知れません。
例えどんな過去をもった自分であったとしても、絶対に責めないでください。
死にそうなほど辛い日も、
「せめて今日一日。」という思いで必死に生きてください。
次の日も、その次の日も、ずっとずっと乗り越えるように生きてください。
そして、乗り越えている間に自分が安心できる人や場所をみつけたら、
今まで言えなかった事、言いたかった事を話してみましょう。
もしも、相手の反応が自分が考えていた反応と違っていたとしても、
心配したり、不安になる事なんてありません。
あなたは今まで通り必死に生きていけばいいのです。
なぜなら、それが人権であり、あなたが持っている「生きる権利」だからです。
たった一人で被害の記憶と闘って生きるあなたは本当に強くて、優しいのです。
そして、優しく、強く生きていく人間の命を縛る鎖なんてこの世にないのですから。
あなたは絶対に悪くない。
あなたは絶対に間違っていない。
誰にも言わないけれど、あなたが毎日生きるのに血のにじむ努力をしている事を
当事者である私はよく知っています。
「法律」という厄介な鎖を完全に断ち切る事はできません。
だけど、少しずつ鎖を外していくことなら協力する事ができます。
OHANAの相談室に興味があるけど、もっと具体的な活動が知りたいと思っている方、
是非、OHANAの勉強会に参加してみてください。
「自分には何も資格がないけれど、誰かの助けになりたい。」
「性暴力や被害当事者について、もっと正確に知りたい。」
そういう方も是非、参加してみてください。
小さな勉強会なので、肩の力を抜いて学ぶ事ができます。
性犯罪、性暴力について正確な知識があれば、
被害当事者である方ももう自分を責める事はありません。
間違っていたのは相手であって、自分は被害を受けた側なのだと確認する事で、
厄介な鎖を外す事ができるようになるのです。