花はどこへ行った

 

 

私が小さな頃、私には乳母夫婦がいました。

乳母の事を「あっぱ」、乳母の旦那様を「じっこ」という愛称で

私も私の家族も呼んでいました。

年齢は多分、70歳は超えていたと思うのですが、

私は5,6歳ぐらいまで、この2人が自分の両親だと思っていました。

温かくて、優しくて、決して怒る事もなく、

ものすごいキカンボーの私が悪さをして、

父や周りの大人に怒られていても、

絶対に私を庇い、味方をしてくれる2人が私は大好き。

もちろん、もう今は2人共他界しているけれど、

自分が無力に感じてしまった時は、

何故か2人の事を思い出すと、ぐっすりと眠って、

翌日には、無力感が全て消えているんです。

 

今回は2人の事を残しておこうと思います。

 

戦争と兵士と慰安婦と

 

あっぱは満州生まれ、その後少しだけハワイに住んで、

終戦後は岩手県に住んでいました。

じっこは青森生まれの岩手育ちで、戦争で満州に行きました。

戦争が終わって、じっこも岩手に帰りました。

 

あっぱは大きくなって、日本軍の慰安所で働いていたと言います。

そこに兵士としてじっこが来ていて、2人は出会いました。

じっこは戦争で、人を撃ってしまった事から、

随分と心を病んで、お酒におぼれて、

毎日のようにあっぱのところに通っていたそうです。

 

「銃を撃っているのは、兵隊さんだけじゃないよ。

国にいる家族を守る為に、兵隊さん達はみんな頑張ってる。

だから、そんなに自分だけを責めなさんな。」

 

あっぱにそう言われると、じっこは兵舎に帰っても、

少しだけぐっすり眠れたのだそうです。

 

そのうちじっこはあっぱが大好きになって、

終戦が間直に迫り、混乱する満州から、

あっぱと二人で逃げようと、真夜中に待ち合わせをして、

暗い林の中を手を繋いで、逃げようとしました。

しかし、地元の人に見つかり、兵舎へと連れ戻されてしまいました。

その後、じっこは懲罰として両手の薬指と右足の小指を切り落され、

逃げられないようにされてしまいました。

そして、あっぱは罰として、家族と一緒に、

ハワイの収容所へと送られてしまったのだそうです。

 

 

そして終戦を迎え、2人とも日本に帰国しました。

あっぱは日本に帰国してからは、

漁港で魚屋の手伝いをして働いて、夜は飲み屋さんで働いていました。

ある夜の事、お店の外で人が大騒ぎしているので、

様子を見に行ってみると、

そこには、大酒を飲んでベロベロになったじっこが、

ボコボコにされていたのだそうです。

あっぱが、急いで止めに入り、

じっこを殴っている人に事情を尋ねると、

じっこが無銭飲食をしたのだと言います。

あっぱは、持っていたお金を全部出して、

それでも足りない分は、必ず、後日返済するからと

お店の人に頼み込んで、その場は許してもらいました。

 

ボコボコにされたじっこを、あっぱは送って行こうとしましたが、

じっこには帰る家がありませんでした。

あっぱは、昼間働いている漁師さんに事情を話し、

網なんかが置いてある倉庫の隅に、2人で置いてもらえるようにしました。

戦争が終わって、帰国する事はできたけど、

欠損した身体では、なかなか職がみつかりません。

それでもじっこは、あっぱに逢えた事が嬉しくて、

わずかなお金にしかならなかったけれど、

漁に使う網の修繕を手伝ったりしていました。

あっぱは今まで通り、魚屋と飲み屋さんで働き、

何年か2人は幸せに生活していました。

 

でもある日、またじっこが大酒を飲むようになりました。

あっぱが理由を尋ねても、その時はじっこは答えなかったと言います。

後でじっこが言うには、

 

「あっぱがさ、昼も夜も一生懸命働いてるのに、

じっこは迷惑しかかけてないと思ってた。」

 

それが理由だったそうです。

戦争直後は国民全員が本当に苦しくて、

働く場所さえ選べない、まして地方では障害のあるじっこには、

生活を支えるだけの職がありませんでした。

それでもあっぱは諦めず、働きつづけ、

2人は夫婦となり、子どもも産まれ、つましく生活をしていました。

ただ、じっこは、戦争経験のトラウマに苦しみ続け、

発作の様に大酒を飲んでしまうという症状に悩まされていたそうです。

 

そして、少しずつ日本が復興していく中で、

あっぱ達の住むところに「出稼ぎ」の募集が出始めました。

「出稼ぎ」の仕事はとても給料が良いのですが、

なかなかハードな職が多く、

漁師もできないじっこが雇ってもらえる訳がないと思いつつも、

ダメ元で何社かの面接に応募したそうです。

じっこの予想通り、面接は殆ど落とされてしまっていた中、

一つの会社がOKを出してくれたんだそうです。

欠損した身体に加え、年齢ももう50歳代のじっこでもOKだと。

じっこは大喜びで家に帰り、あっぱにその事を話したそうなのですが、

あっぱはあまり嬉しそうではなかったそうです。

 

「じっこと離れるのは嫌だよ。。。」

 

あっぱにそう言われて、じっこは泣く泣く

面接してくれた会社の社長に「出稼ぎ」のお断りに行きました。

すると社長から、お断りしたい理由を尋ねられたので、

今までの事情を正直に話したところ、

 

「母ちゃんも一緒で全然大丈夫よ。

子どもが居るんだったら、家族みんなでっていうのはどう?」

 

そんな思いもかけない言葉が返って来たそうです。

 

「うちの会社さ、若いのしかいなくて、

飯炊きのお母ちゃんもいなくて困ってたところなの。

家族用の部屋もあるからさ、良かったら来てくれると助かるんだけどな~」

 

じっこの障害の事に関しては

 

「大丈夫、大丈夫。うちの会社、土木だから地下に入っちゃうからわかんねぇし、

指がない奴なんて、いっぱいいるから!

俺も人差し指ねぇしっ!でも、落とし前とかでなくなったんじゃないから、

そこは安心して。怖い会社じゃねぇから。」

 

そんな風に言われたそうです。

 

それが、あっぱとじっこと、私の父との出会いです。

そしてあっぱ達家族は、東京に来たのです。

 

人間の持つ力

 

東京では、あっぱ達は食堂と隣接している家族部屋に住んでいました。

あっぱの息子さん達も一緒に引っ越してきていて、

東京の学校に通い、卒業し、父の会社で働き手に職付けて、

岩手に戻り、ご結婚されました。

息子さん達が自立する頃から高度成長期に入り、

会社は一気に人数が増え、仕事が忙しくなってきたと同時に

私達が産まれました。

そして、仕事で忙しく、家を空ける事が多かった両親に変わり、

あっぱとじっこは、東京に残り、私の乳母夫婦になりました。

私がまだまだ小さい頃、よくお友達とケンカをして、

子どもによくありがちな「絶交」を宣言したりすると、

あっぱとじっこは私にこう言いました。

 

「未来ちゃん、絶交はだめよ。

本当に強い子は、一人で何でもできる人じゃなくて、

みんなと仲良く出来る人なんだよ。

どんな人でも大切にできる人が、一番強い子なんだよ。」

 

とてもあたたかい腕に抱っこされながら、

優しい声で2人からそういわれると

私は素直になれました。

「どうもありがとう」や「ごめんなさい」はもちろん、

どんな苦手な事も乗り越える事ができました。

 

人はたくさん間違いを犯します。

だけど、その間違いを見つけて、正してくれるのは、

他人なのではないでしょうか。

 

また、戦争や兵士や従軍慰安婦報道をよく目にしますが、

日本国内にだって、たくさん戦争犠牲者(慰安婦含め)がいます。

女性支援を声高に訴えるのであれば、私の乳母たちは批判されるのですか?

私のじっこは性犯罪者で、あっぱは性搾取された被害者なのですか?

それは違うはずです。

戦争というどうしようも出来ない状況の中で、

また、出会いは最悪のタイミングだったのかも知れないけれど、

泥の中から必死で這い上がり、ジェンダーを実現していた人達だと、

私はよく知っています。

 

 

守りたいものがあるのであれば、

また、性犯罪・性暴力・性搾取に関わらず、

あらゆる暴力をなくしたいのであれば、

あっぱが言うように、まずは言葉から気を付けてみたらどうだろう。

過激な言葉や、特定の人達にしか理解できない言葉を使うのではなくて、

誰にでもわかる言葉で、開かれた場所で、平等な目線で話せるように、

私達OHANAの目標はそうしようと思いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

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